星ふる里蔵 稲葉酒造場 稲葉 伸子さん

笑顔になれる日本酒を

江戸末期から代々続く造り酒屋に生まれ、廃業の危機にあった家業を再生。
昔ながらの味を守りつつ、新しい酒造りにもチャレンジしてきた。
「日本酒を通して日本文化を伝えていきたい」
そんな思いで日本酒造りにはげむ稲葉伸子さんにお話を伺った。

家業を絶やしたくないと女性杜氏に転身

筑波山神社のお神酒として知られる「男女川(みなのがわ)」の蔵元、稲葉酒造。筑波山麓の、のどかな里山の風景を一望する地にあり、筑波山の湧水で「男女川」を造ってきた。代々続いた造り酒屋だが、稲葉さんの父親は自分の代で終わらせるつもりだったという。稲葉さんは二人姉妹の次女。後継者もなく、杜氏や蔵人も高齢化とともに来ることができなくなってしまった。稲葉さんも跡を継ぐつもりはなく、百貨店に勤務して充実した日々を送っていたが、30歳を迎えた頃考えが変わったという。
子どもの頃、酒造りを見るのが好きだったという稲葉さん。学校から帰ると酒蔵に足を運び、蔵人たちが作業をするのを飽きもせずに眺めていた。たくさんの蔵人がいて、大家族のようで楽しかったわが家。もろみが発酵していく様子を見るのが楽しみで、プチプチと囁くような音や麹の香りが心地よかった。
そんな子供の頃の原風景がなくなってしまうのは寂しく、日本酒の伝統文化を絶やしてしまうのは忍びない。そう思い始めたものの今の仕事のことや家族のこと、幼い二人の娘のことを考えると迷いもあった。そんな稲葉さんの背中を押してくれたのは「お父さんを手伝ってあげたら」というご主人の一言。家業を守るのは自分しかいないと心を決め、一歩を踏み出したのだった。

一から学んだ酒造り

とはいえ酒造りは全くの素人。工業技術センターに通って一から学び、他の酒蔵に見学に行っては助言を仰いだ。まだ女性の杜氏が珍しかった頃。その昔、酒蔵には女性が入れなかったこともあり「女にできるはずがない」と父にも反対された。力仕事はきつく、冬の寒さも身に染みた。それでもやめようとは思わなかったのは、「どうしてかはわからないけれど、自分には絶対できる、絶対おいしいお酒を造れるという思いがあったから」と稲葉さん。
「昔のままの貴重な酒蔵を残したい」という筑波大学の教授や学生らの協力も得て、自分なりのやり方を模索していった。女性の力でも動かせるようにタンクや道具を小型化し、女性ならではの細やかさで丁寧な酒造りを心がけた。ボランティアの学生が蔵磨きやラベルのデザインをしてくれたり、仕込みを手伝ってくれたりし、徐々に蔵は活気を取り戻していった。「本当に人との出会いにめぐまれました。学生たちは『よい経験ができた』と言ってくれて、立派な社会人になった今でも訪ねてきてくれます」と当時を懐かしむ。

丁寧な手仕事から生まれる限定醸造の日本酒「すてら」

大型の機械など一切使わず、昔からの手法で手造りしている稲葉酒造。そのため造れる量も限られ、直売しているほかは数か所の販売店と飲食店に卸しているのみ。「小さな蔵には小さな蔵でしかできないことがあります。私はいいものを造りたいと、それだけに力を注いできました。手間もコストもかかるけれど、飲んだ人が幸せな気分になれる、安らげるお酒を造っていきたいと思っています」と語る。
そんな稲葉さんの思いで生まれたのが「すてら」。日本酒造りの原点に立ち、環境を人工的に制御せずに、麹、酵母、もろみの発酵力、そして人の五感だけを頼りに造られる純米大吟醸だ。とくに「雫酒」は醸造されたもろみを酒袋に吊るして自然の重みだけで一滴、一滴、雫を落とす。手間暇かけて丁寧に造られた酒は、フルーティーな香りで味わい深く、海外でも高い評価を得ているそうだ。
「おいしいお酒を造るためにやった方がいいと思うことは、何でもしました。仕事に対して何事も妥協せず、より繊細に丁寧にやってきたつもりです。女性は力仕事では男性にかないませんが、味や香りに対する感性や作業の細かさは負けていません。もろみの状態を細かく確認し、最高の状態のときに搾る。それがこだわりであり、手造りならではのおいしさだと思います」と酒造りへの姿勢を語る。

日本酒の文化を伝える星ふる里蔵

仕込みの時期を迎え、今が一年でもっとも忙しい酒蔵。冬の凍てつく寒さの中、もろみの状態を確認するために夜中に何度も酒蔵に足を運ぶとき、仰ぎ見る満天の星空にこの地の豊かさを感じる。そんなふる里への思いを込めて、愛着のある酒蔵を「星ふる里蔵」と名付けた。酒を造るだけの蔵ではなく、人と出会い、酒を味わい、酒を楽しみ、酒にまつわる文化を継承する蔵でありたいとの思いから食事処を併設。酒蔵を改造した趣ある店内では、利き酒や酒に合う地場産の野菜を使った料理、手打ちそばが楽しめるほか、お酒を味わうイベントなども開催する。
「日本酒をもっともっと飲んでもらえるよう、おいしいものを造っていきたい」と語る稲葉さん。当初は陰で応援してくれていたご主人が今では仕事の良きパートナーとなり、安心して酒造りに専念できるようになった。「今の自分があるのは主人のおかげ」と信頼を寄せるご主人の支えのもと、女性ならではの感性で造られる日本酒は、これからも飲む人を笑顔にしてくれるだろう。

プロフィール

稲葉 伸子  Nobuko Inaba

1867年創業の造り酒屋、稲葉酒造の6代目。
家業を継ぐため、日本でも数少ない女性杜氏となる。
1999年に「すてら」ブランドを発売。
手作業にこだわり、「すてら」は年間7タンクのみ醸造している。

稲葉酒造ホームページ  http://www.minanogawa.jp/