元出光英国石油開発取締役 福田 隆さん

「店主」出光佐三から学んだ人間尊重の教え

話題の映画『海賊とよばれた男』の
モデルとなっている出光佐三。
出光興産の創業者で、
戦後日本の経済成長を支えてきた一人だ。
そんな出光氏に随行して寝食を共にしつつ
各国の要人をもてなしたこともあり、
石油の契約交渉で世界を周った福田隆さん。
社員から親しみをこめて
「店主」と呼ばれていた出光氏との思い出を伺った。

昭和31年出光興産に入社

「一言で言えば、こわいけど愛情のあるオヤジ」。
親愛と尊敬の念を込めて
出光氏のことをそう表現する福田さん。
出光興産に入社したのは、
映画に描かれた「日章丸事件」の少し後。
大学でフランス語、英話を学んだ福田さんは
語学力を評価され、
世界各国との交渉にあたる
渉外部及び開発部に配属となった。
当時、出光氏はすでに古希を迎えていたが、
まだまだ現役で新たな事業も次々と展開していた。
「50才近くも年下の若造だった自分にも
丁寧に接してくれ、とてもかわいがってくれました。
正義を貫いてどんな相手にだって盾突くけど、
従業員には優しい。
ユーモアもありとても魅力的な人でした。
そんな人の元で働かせてもらって、
薫陶を受けることができたのは
本当にラッキーでした」と振り返る。

出光佐三に随行して

790person2出光興産が大きく発展するきっかけとなったのが、
昭和32年に竣工した徳山製油所。
公害という言葉さえもなかった時代に、
公害予防の配慮がなされた最先端のコンビナートで、
戦後日本の復興を象徴するような事業となり
注目を集めた。
このときの竣工式に、
資金を融資してくれたアメリカ銀行の要人ほか
製油所建設に協力した外国人要人たちを招待。
接待する出光氏に同行したのが、
初の大きな仕事だった。

その少し後、昭和34年に福田さんは、
エクソンの社長夫妻を京都に案内することになった。
甚大な被害を出した伊勢湾台風が接近中で、
嫌な予感が的中。
名古屋の手前で電車がストップしてしまった。
だが突然の出来事に慌てつつも
機転を利かせて近くの蒲郡のホテルに部屋を確保し、
名古屋支店の協力で移動の手配や
スケジュール調整を行って事なきを得た。
目の前のトラブルを回避することに
一生懸命に取り組んだ福田さんの行動に
感心したエクソンの社長は、
出光氏に「冷静に対応してくれた」と
感謝の手紙を送付。
出光氏は福田さんをねぎらうと同時に、
「あのときのような気持ちで仕事をするんだよ」
という言葉をかけてくれたという。
「その言葉は長年仕事をするうえで、
ずっと私の心の中にありました」と
福田さんの仕事人生を支える思い出となった。

資本は人、従業員は家族

戦後、海外の事業をすべて没収され、
さまざまな規制の元、
商売も自由にできなくなり
窮地に立たされた出光興産。
それでも出光氏は
「資本金が少ない我が社は人が資本!」と言って
一人もクビにしなかった。
「人間尊重をモットーとし、
従業員は家族というのが店主の考え。
家族なんだからクビになんてできるわけがない、
といつも言っていました。
そんな店主の信念は、
亡くなった後も社内にずっと引き継がれてきました。
今問題になっている
社員を使い捨てするブラック企業なんて、
店主からしたらもってのほかですね」。

ちなみに「店主」とは社内での呼び名。
事業を興した出光商会の店主という意味で、
会長を退任した後は
正式に「店主」という役職を設けて就任した。
どんなに会社が大きくなっても、
従業員を家族のように思いやった出光氏にとって、
「社長」よりも従業員との距離が近く感じる
「店主」の方がしっくりいったのかもしれない。

日本に誇りをもて

「儲けろ」とは決して言わなかったという出光氏。
「金の奴隷になるな、学問の奴隷になるな、
主義の奴隷になるなと言ってました。
知識だけあって知恵のない者はダメ、
主義にはそれぞれ良いところも悪いところもある、
自分で考えろということです。
店主は目があまりよくなかったので、
多くの本は読むことが出来なかったため、
その分いろんなことを考えていました。
消費者のこと、日本国のこと、そして従業員のこと。
当時、日本はアメリカに追いつこうと必死でしたが、
日本には日本の良さがある。
日本に誇りをもって欧米かぶれするな、
外国の良いところを取り入れても
日本の良いところを忘れるな、と。
根っからのサムライですよ」。

そんな出光氏が亡くなって35年。
今の日本について福田さんは
「日本はいい国、世界の優等生ですよ。
街はキレイだし、治安もいいし、食べ物は美味しい。
でも一方で自殺率が高かったり、
長時間労働が社会問題になっていたりする。
国民の幸福度も低い。
これでは本当の優等生にはなれません。
日本は十分物質的に裕福になりました。
そろそろ経済成長よりも
幸せを追求してもいいんじゃないでしょうか。
今こそ人を尊重する
出光精神を見直してみるべきです」。

一緒にPR映画を制作

DVDを見る福田さん

DVDを見る福田さん

福田さんの手元には
思い出深い1本のPR映画がある。
『THE IDEMITSU Story』。
出光氏が85才だった昭和45年、
アメリカ銀行から
「近代日本の復興と成長の種をまいた一人
として紹介したい」と声をかけられ、
一緒に作った映画だ。
映画は好きだったが、
もちろん映画製作などしたことがない。
それでも自分の中でイメージを創り、
出光氏が千葉製油所などを歩きながら、
独り言でこれまでの人生を振り返る内容の
映画を全編英語で制作。
ハリウッドから来た撮影隊のもと
助監督兼通訳を務め、
自分で書いた英文を自分で読んで
ナレーションも担当した。
「即興でしたが、店主及び役員の方々は
なかなかの演技でした。
店主が『オレもハリウッドの映画に出たよ』って
喜んでいて、作ってよかったです」。
映画はDVDに焼き直し、大事に保管している。

福田さんは平成6年に定年退職するまで
世界を舞台に活躍してきた。
石油開発事業の契約交渉や
石油の利権交渉締結などのために訪れた国は
30カ国にもおよぶ。
「イラン革命前のパーレビ国王や
トンガの王様に会ったり、
アマゾン、ミャンマーや中国の奥地に行ったり、
おもしろい経験をたくさんさせてもらいましたよ」。
今は得意の英語やフランス語、
スペイン語を自宅で教えつつ、
趣味の下町散歩に東京に出かけたり、
好きな旅行や映画、音楽を楽しむ毎日だ。
「心は永遠の青年」と笑い、
柔和な表情からは、
これまで送ってきた人生の豊かさを感じる。
早くに両親を亡くし、苦労も多かったが
「あまり苦にしない楽天的な性格」で
人生を切り拓いてきた。
ずば抜けた行動力と独自の経営哲学理論で
戦後の日本経済の発展に
大きく貢献した出光佐三氏、
氏のスピリッツを受け継いだ福田さん。
そんな大先輩から私たちが学ぶことは多々あると思う。

プロフィール

元出光英国石油開発取締役
福田 隆さん [Takashi Fukuda]

1932年 東京世田谷生まれ 現在取手市在
1950年 水海道第一高等学校卒業
1956年 東京外語大学フランス語科卒業、出光興産入社
1960~1966年 出光ニューヨーク事務所駐在
1987年 出光英国石油開発 取締役就任
1994年 出光定年退職
2004~2010年 国際がん予防協会顧問(語学契約関係)
2012~2015年 ツタンカーメン展日本開催実行委員会理事
現在は自宅で英語、フランス語、スペイン語を教える。


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